友の心、友知らず


 セシルへの恋心を自覚した後も互いの関係が変わることはなかったし、そもそも変わることを自分は望んでいなかった。ただ側にいられればそれで良い。それ以上のことは何一つ望んでなどいない――そのつもりだった。
 フリオニールは時計を見上げ、腹筋中の身体を起こした。バスルームに続く扉に視線をやり、遅いなと独りごちる。セシルは顔に似合わず烏の行水であり、いつもなら10分もしない内に上がってくる。しかし今日は様子が違った。現在の時刻から彼が風呂に向かったおおよその時刻を引くと、かれこれもう30分以上が経過していた。
 第六感が疼き、じっとしていられなくなったフリオニールは立ち上がるとバスルームの扉を開いた。小さな脱衣所の棚に収納された籠に、脱いだ衣類がきちんと畳まれて置かれている。風呂場に続く曇りガラスのドアを見遣れば淡いオレンジの明かりが内側から発光していた。しかしシャワーの音がしなかったので、珍しくゆっくりと湯舟に浸かっているのだろうかと考えを巡らせる。それならば自分が心配する理由はない。念のために一言だけ声を掛けてから立ち去ろうと、彼はドアに顔を寄せて親友の名前を呼んだ。
 ――返事がなかった。聞こえなかったのだろうかと思い、もう一度名前を呼ぶ。しかし、やはり彼からの応答はない。
 フリオニールはドアの取っ手を握り締め手前に引いた。熱気を含んだ白い湯気を掻き分けるように中に入る。バスタブの縁に頭を置き、両腕を投げ出した状態のセシルがいた。慌てて駆け寄り、両脇に腕を差し入れ彼の上半身を抱え上げる。
「セシル!大丈夫か」
「……ん……」
 火照った頬を軽く叩き、反応を確かめる。瞳が揺らめき視点が定まっていなかった。
「セシル、また寝てたんだろ」
「……うん」
 こくりと頷き、セシルが力無く肩に凭れ掛かってくる。フリオニールは嘆息した。これでもう3回目だ。風呂で寝るのはやめるよう口を酸っぱくして何度となく言ってきた。湯舟で危うく溺れ死にかけた前回の大惨事も、残念ながら教訓として生かされなかったようだった。
「とにかく部屋に戻ろう。自分で歩けるか?」
「……おんぶ」
 そう呟き、まるで幼い子供のように甘えるような仕種で顔をこすりつけてくる。最近、セシルはまたも変わった。一度目の変化の時と同様、変わった原因は十中八九ゴルベーザが原因だろう。彼がガーデンを去って一ヶ月余りが経つが、セシルの言動が以前と比べて幼くなったように思うことが多々あった。
 フリオニールは背中を向けてしゃがみ込んだ。セシルの濡れた両手が前に回され、全体重がのしかかる。58kgという比較的身軽な彼の身体を運ぶことそれ自体は容易いことだが、些か緊張している自分がいた。タンクトップ一枚の背中越しにセシルの肌が密着している。歩く度に彼の唇が自分のうなじに触れているような気がする。
 はあ、とセシルの熱い息がフリオニールの首筋を撫で上げた。ぞくりと鳥肌が総立ち、ますます身体が強張った。自分の首に回された真っ白の腕を見下ろし、太陽の下で日々鍛練を積んでいるにも関わらず、染みの一つさえ見当たらない滑らかな肌の質感に息を呑む。セシルの裸など見慣れていた筈だった。SeeDの皆で温泉に行ったことだってある。綺麗な肌だなと漠然と思ったことはあったが、それ以上の感想も感情も抱かなかった。何故今更と自問する一方で、やはりセシルは自分にとって友人以上の存在なのだと思い知った。好きだと自覚した途端、彼を見る目が180度変わってしまった。今まで気付かなかったのが不思議に思える程、セシルに対する多くの新しい発見があった。
「セシル、俺は水を持ってくるから。着替えておけよ」
「……ん……ありがとう」
 セシルの身体をベッドに下ろし、彼の裸体を極力視界に入れないようにして対角線上の先にある冷蔵庫に小走りで駆け寄る。冷たい水をコップに注ぐ間、背後から聞こえる衣擦れの音が落ち着かなかった。
 

***


 風呂に酔ったセシルの介抱を一通り終えたフリオニールは、様々な邪念を振り払うように腹筋を再開した。小声で回数を呟きながら、一定の速さを保ちリズミカルに腹筋運動を繰り返す。次第に集中力が高まり、いつの間にか他のことは何も考えなくなっていた。
 1時間近くが経過した頃、額から滴り落ちた汗の粒が瞼に垂れ視界がぼやけた。それまで一切の休憩をせず、一心不乱に身体を動かしていたフリオニールは漸く動きを止め、タオルで汗を拭うと大きく深呼吸をした。渇いた喉を潤そうと立ち上がろうとしたその時、頭上から自分の名を呼ぶ声が聞こえた。振り仰いだフリオニールの眼前に、水の入ったコップが差し出された。視線を上方に動かすと、膝に手を宛がい屈んだセシルと目が合った。
「セシル!もう大丈夫なのか?」
「ああ。もうすっかり酔いが冷めたみたいだ。ありがとうフリオニール」
「……セシル。頼むから、もう二度と風呂で寝るな」
 ややきつい口調で、彼に言い聞かせるように言う。コップを受け取り、冷えた水を一口飲んだ。
「ごめん、心配かけてしまって。それより腹筋中なんだろ?手伝うよ」
「えっ……手伝うって、何を」
「いいから。寝転がってよ」
 言いしなセシルがフリオニールの足先に回り込み、床に屈んで両足首を押さえられた。確かに足元を第三者に支えられれば一層の力を腹筋に篭めることが可能だが、身体を起こすたびに彼の顔が視界に入る状況で、果たしてトレーニングに集中することなど出来るのだろうか。
「セ、セシル……あの、それは」
「僕が数えてあげるから。ほら、早く」
 セシルに急かされるまま、渋々腹筋を再開した。腹部に意識を集中させ、上体をゆっくりと起き上がらせる。フリオニールは目を閉じた。至近距離で彼と目を合わせることが憚られた。単に照れ臭いというのもあるが、赤面して挙動不審に陥ることが怖かった。
 いち、に、さん、とセシルの甘ったるい声を全身に浴びながら、がむしゃらに身体を動かす。起き上がる度に彼の気配を間近に感じ、石鹸の香りが鼻腔を擽る。恋心に気付いてしまった今、たったそれだけのことで酷く動揺してしまう自分がいた。案の定集中など出来る筈もなく、更に、頑なに目を閉じた状態での腹筋が平衡感覚を鈍らせたのか、やがて軽い眩暈さえ生じていた。瞼を上げずにはいられなくなり、ほとんど反射的に目を開けていた。
 勢い任せに身体を起き上がらせた瞬間、不意打ちでセシルの顔が視界一杯に入ってきた。触れるか触れないかの距離に迫った想い人の桜色の唇を見て、フリオニールは素っ頓狂な声を上げた。その声に驚いたのか、セシルが足を押さえていた手をびくりと浮かせた。
 混乱した頭で壁際まで後退りし、赤面した顔を俯かせ瞼を伏せる。心臓が早鐘を打ち、指先が震えていた。我ながら情けなかった。俺はとんだ臆病者だと自嘲する。自分が彼と今まで通りの関係を望んでいるのは、気持ちを拒まれることが怖いからだ。ただ想っていられればそれでいい――そう思っていた。しかし実際はそんな単純なことでは済まされないようだった。漠然と、しかし確実に、セシルに対するあらゆる欲求を抱いていることに気付いてしまった。触れたいと思う気持ちが根底に存在するから、接近するだけで身体が強張り、緊張するのだ。
「フリオニールどうしたの?顔が赤いな……もしかして、熱があるのかな」
 セシルの手が伸ばされ、ひんやりとした手が額に優しく添えられる。自分の気持ちを分かっていて、その上でわざとやっているのではないだろうなと邪推してしまう程、セシルの言動は逐一フリオニールの感情を揺さ振った。
「あ、あの……いや、だっ、大丈夫……だ、から」
「そうかなあ。じゃあ、腹筋の続きをやろうか」
「い、いや、もういいんだ!そ、そろそろやめるつもりで……だから、その」
 慌てて首を左右に振る。片恋の相手と同室であることの難しさを実感し、今の自分に必要なのは肉体ではなく精神的なトレーニングかもしれないな、と深々と嘆息した。
「そうなのか。うん、分かった」
 セシルは小首を傾げ、頷くと膝をついて立ち上がった。壁に掛けられた制服のジャケットを手に取り、それに腕を通し始める。
 ガーデン内を歩く際は、いかなる場合であっても制服かまたは戦闘用の衣服の着用が義務付けられている。ラフなシャツ一枚でいることが許されるのは、寮の室内だけだった。
 制服のボタンを留めるセシルを見上げ、今から何処かに出掛ける気なのだろうかと気持ちが焦る。自ら彼との接近を拒否しておいて、やはり出て行かれるのは寂しく、側にいて欲しいと願ってしまう。
「セシル……今から何処かに行く気か?」
「ああ、カインに呼ばれてて。君のトレーニングを手伝うから行かないつもりだったんだけど」
 セシルの口から思いがけず出た名前に顔が引き攣る。カインだって――。
 途端に心がざわついた。カインの所には行かせたくない。確信はないが、彼がセシルを見る視線には自分と同じものを感じてならない。
 誰かを好きになることは、自身の醜さを思い知ることでもあった。自分の預かり知らぬ所でセシルとカインが二人きりでいることに耐えられない――。フリオニールは立ち上がり、セシルの二の腕に手を伸ばした。一貫しない行動に自分自身大きな矛盾を感じながらも、言わずにはいられなかった。
「あの……セシル」
「うん、何?フリオニール」
「やっぱり、もう少し……トレーニングしようかと思うんだ。だから……その」
 声が震える。顔を上げて、真正面にある白皙の顔を見つめた。目が合えば彼は優しく自分に微笑み、胸の奥が締め付けられる。全ての感情が溢れ出しそうになるのを必死にせき止め、フリオニールは言葉を紡いだ。躊躇いなど最早なかった。
「……行かないで……欲しい」
 セシルの腕を掴む手に、知らず知らず力が篭った。







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