SeeDの本編より5年前の番外編です。SeeD6話「接点」まで先にお読み頂くことをお勧め致します。

セシル…14歳
カイン…15歳
ゴルベーザ…25歳



水と油



 突然のゴルベーザの帰還は、カインにとってかつての忌々しい記憶を呼び戻すだけでなく、親友であり恋人である(と、カイン自身は思っている)セシルの関心が、たとえ一時であっても、自分ではなく彼の方に向けられてしまうことが何よりも耐え難い苦痛だった。
 3日間の滞在とはいえ何故今さら帰ってきたのだ。たった3日間、されど3日間。ゴルベーザが馬車から姿を見せるなり彼に駆け寄り、兄さん!と飛び付いたセシルを見て、全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。怒髪天を突く一歩手前で何とか留まり、2人の再会を後ろで見守る。愛おしそうにセシルの頭を撫で続けていたゴルベーザがふと顔を上げ、目が合うなり、まるでモンスターと対峙したかのような、敵意剥き出しの瞳で睨んできた。負けじとこちらも睨み返すと、ゴルベーザは視線をセシルに戻し、彼の頭先で何かを小声で囁いた。セシルの顔がぱっと華やぎ、首肯したのを見てカインは小さく舌打ちした。自分に駆け寄り、予想していた言葉を残して兄と共に城の方角に歩いていった幼なじみの姿を、見えなくなるまでいつまでも目で追いかけた。
 自宅に帰り、カインは乱暴に椅子を引いて腰掛けた。足を組み、くそっ、と荒々しい声を出す。
 かつて散々人をパシリに使ってくれた絵に描いたようなガキ大将だったあのゴルベーザが、10年の歳月を経て落ち着いた大人の男の貫禄を身に付け、すっかり見違えるようだった。厳つい漆黒の甲冑に身を纏い、長いマントを翻してセシルを自分から“攫っていった”彼の姿を思い起こし、それから姿見で自分を映す。思わず、溜め息を漏らしていた。セシル程ではないにしろ、なかなか日に焼けてくれない白い肌。頼りない細い二の腕。異性にはすこぶる好評のようだったが、未だ幼さの残る自分の顔がカインは好きになれなかった。早く成長してゴルベーザのような大人の男になりたい――気持ちだけが先走る。
 翌日、朝一番でセシルの部屋を訪ねに行った。威嚇するように腕を組み、部屋の入り口に仁王立ちしたゴルベーザが弟に何の用だと訊いてくる。目の前に立たれると、まるでオーガかタイタンのようだと思った。鍛えぬかれた筋肉質の巨体に圧倒されかけ、しかし自分を奮い立たせて踏みとどまる。
「アンタには関係ない。セシルを呼んでくれ」
「弟はまだ寝ている。さらばだ」
 有無を言わさず扉を閉めようとしたゴルベーザを見てカインはとっさに腕を伸ばした。扉を押さえ、待て、と上目遣いに彼を睨む。ゴルベーザが片眉を上げた。
「ほう……予想以上の力だ。昔とは大違いだな」
 彼の指す昔とは、パシリ時代のことだろう。当たり前だとカインは内心毒付いた。
「だがまだまだ幼いな。弟の眠りを妨げるのは許さん、帰ってもらうぞ」
 ゴルベーザがカインの腕を引っ張り上げる。振り払おうにもビクともしない。圧倒的な力の差を見せ付けられ、彼に体を突き飛ばされると扉が目の前で閉められた。ゴルベーザに掴まれた箇所が痛い。袖を捲ると、真っ赤な痣が出来ていた。
 カインはゴルベーザに抱いた感想を取り消した。何が大人の貫禄だ。確かに外見は厳ついが、中身はてんで変わっていない。むしろ、セシルに関しては殊更悪化したようだった。娘の結婚を許さない頑固親父よりも重症だ。
「フン……あんな奴に負けてたまるか」
 カインは塔の外に出て、セシルの部屋の窓を振り仰いだ。



***



 ガーデンの教師となってからというものの、時折セシルから届く手紙を読むのが一番の楽しみだった。
『きょうはへいかにけんじゅつをならいました。けんはおもくて、あつかいがたいへんでした。でも、へいかはすじがいいといってくれました。ぼくはナイトになるのがゆめです。いつかりっぱなナイトになって、にいさんをまもってあげるね。セシルより』
 幼い字で書かれた弟の手紙を眺めているだけで、疲労が嘘のように吹っ飛ぶのだ。セシルの手紙の内容は、バロン王とのエピソードが多かった。文面から、王がセシルを慈しみ可愛がってくれていることがよく分かる。バロンを発つ朝、兄さん行かないで、行っちゃ嫌だと、泣きわめきすがりついてきた幼いセシルの姿を思い出すと心が痛むが、それだけに尚更王の厚意に感謝した。
 しかし、いつからだったか、セシルの手紙の内容が段々変化していった。陛下の話題が減り、代わりにカインという文字が頻出するようになったのだ。
『昨日はカインと一緒にミスト洞窟に探検に行ったよ。洞窟にある吊り橋がどうやら老朽化が進んでたみたいで、僕が乗った途端足場が崩れて地下に落とされたんだ。カインがジャンプですぐに助けに来てくれたんだけど、地下の岩盤に全身を強く叩き付けられた僕は動けなくて、彼におんぶしてもらってなんとか地上に戻って来られたんだ。もしもカインが僕を助けに来てくれなかったら……そう思うと今でもゾッとするよ。カインはね、あのリチャードさんの息子なんだ。兄さんも知ってるよね?バロン1の竜騎士で有名なリチャードさん。彼の血を引いてるだけあって、カインも凄い才能を持ってるんだ。ああそうだ、今度彼と撮った写真を送るね。じゃあね兄さん、お身体には十分気をつけて。
 セシル』
 カインという名前には心当たりがあった。かつて流行った洗脳ゲームで、ゴルベーザがターゲットとして選んだ相手だ。セシルが女の子だと嘘をつき、写真をちらつかせ無理やり部下に仕立て上げた。
 反抗的で、生意気な少年だった。ポーションを三個買ってこいと命令すれば、「そのかわりセシルちゃんとけっこんさせろよ」と部下のくせに偉そうな口を聞く。自分の立場を分からせてやろうと頬をつねれば、泣くのを必死に我慢してこちらをギロリと睨み付けてくる。カインはあの時と全く変わらぬ目をしていた。嫌な予感は当たっていた。カインはセシルに――我が弟に対して、親友以上の感情を抱いている。
 彼の名前が手紙に登場するようになった当初は、セシルにも親友が出来たのだなと素直に喜ばしい気持ちになれた。それも束の間、いくら親友とはいえ、カインがセシルにあまりに接近し過ぎているように思えてきたのだ。
『僕が夜なかなか寝付けないって言ったら、カインがうちに来いって誘ってくれたんだ。だから最近はもっぱら彼の部屋で寝泊まりしてる。カインたらおかしいんだよ、添い寝してやるって僕の布団に入ってくるんだ。あはは、僕はもう小さな子供じゃないのにね。でも、嫌な気分ではないから、結局添い寝してもらうんだけど。兄さんとも、またいつか一緒に寝られる日が来るといいな……。それじゃ。お仕事頑張って下さい。
 セシル』
 添い寝だの同じ布団で眠るだの、思春期の男同士がする行為からは些か常軌を逸しているような気がした。カインがかつてセシルに一目惚れした経緯を知っているだけに、不穏な予感がしてならなかった。そして昨日、馬車から降りてカインの目を見た瞬間、彼がセシルに寄せる想いに確信したのだ。
 ゴルベーザはベッドサイドの椅子に腰掛け、セシルの寝顔をじっと見つめた。あどけない寝顔だった。世界にたった一人のこの愛しい弟を、カインなどに渡してなるものか。柔らかな銀糸の髪をそっと撫で、ゴルベーザはうむ、と自分に言い聞かせるように呟いた。



***



 昨年バロンの繁華街にオープンした巨大カフェテリアは、質より量を求める若者をターゲットに極端な低価格路線を全面的に打ち出し、今ではすっかり十代から二十代の男女のたまり場のようになっていた。カインは店内に入り、カウンターで注文を済ませてからホールをきょろきょろ見渡した。やがて自分を呼ぶセシルの声が聞こえ、そちらを振り向くと、窓際の4人席に腰掛けたセシルと……そしてゴルベーザの姿が視界に入った。
「カイン、ここだよ」
「ああ……」
 何でアンタがいるんだよ、という目つきでセシルの真正面に座るゴルベーザを見下ろす。目が合えば、彼はあからさまに視線をそらして自分に対する嫌悪感を隠そうともしなかった。何て腹の立つ奴だ。セシルの前では大人の兄を演じているのか知らないが、本性はてんでガキだとカインは内心毒付いた。
「カイン座りなよ。あ、兄さんの隣ね」
「何でだよ。お前の隣でいい」
「兄さんとほとんど初対面だろ?せっかくバロンに帰ってきてくれたんだ、2人に仲良くなってもらいたくて」
「いや、結構だ」
 言いしなカインはセシルの隣の椅子をひいて腰掛けた。初対面どころか、ゴルベーザとは深い因縁がある。彼にしても、自分と仲良くしたいなどとは微塵も思っていないだろう。
「……何か2人とも機嫌悪いね。どうしたの?」
「別に」
「別に」
 2人の声が重なった。セシルが小首を傾げる傍ら、店員がカインの所に注文した品を運んできた。オレンジジュースのコップにストローを差し込んで吸い始めると、ゴルベーザがちらりとこちらを見てふっと口元に笑みを浮かべた。
 これ見よがしにブラックコーヒーを飲み始めた彼を見て、何を言わんとしているかを察したカインはストローから口を離してジュースをセシルの前にスライドさせた。近くにいた店員を呼び止め、ゴルベーザと同じコーヒーを注文した。
「えっ、カインは飲めないだろ?コーヒー」
「飲めるさ。ああ、そのジュースお前にやるよ」
「いいよ。君の大好物だろ、オレンジジュース」
「……うるさい。今はコーヒーの気分なんだよ」
「ふうん……まあいいけど。あ、ワッフル早く食べなよ。冷めちゃうよ」
 バニラアイスとアングレーズソースがたっぷり乗せられた焼きたてのワッフルを見てセシルが指差す。ちらりとゴルベーザの顔を見た。2人はすでに食べ終えており、何を食したのかは分からないが、何故俺はこんな女のような品を注文したのだとカインは自分の迂闊さを悔いた。きっとゴルベーザはこう思ってる。子供だな、と。
 カインの甘党は父親のリチャード譲りだった。セシルにさえ隠していることだが、家の冷蔵庫には常に生クリームとクリームチーズ、それにメープルシロップとチョコレートが常備してある。
 甘ったるい匂いを放つワッフルを前に腹の虫が鳴っている。しかし手を伸ばそうとはしなかった。
 程なくして運ばれてきたコーヒーを、生まれて初めて砂糖もミルクも入れずに飲んだ。
 あまりに苦くて、舌がおかしくなりそうだった。これを美味そうに飲むゴルベーザは味覚障害に違いない。もうダメだ、これ以上飲めば気を失う――カインはカップをソーサーに置き、水を一気に飲み干した。
 激しい運動をしたかのように息が上がる。腹の中がぐるぐるする。気持ち悪くて吐きそうだ。カインは思わず、隣の膝に置かれたセシルの左手を握り締めた。
「……カイン?」
 セシルが不安げに顔を覗き込んでくる。ふらりと体が揺らめいて、無意識のうちにセシルの胸元に飛び込んでいた。親友の温かい胸に包まれ、遠のいていく意識の中、ゴルベーザが手にしていたカップに一筋のひびが入ったのが視界に入った。
 目を覚ますと、セシルが横からカイン、と声を掛けてきた。見慣れた天井を見上げ、自分の部屋のベッドに寝かされていたことに気付く。上半身をおもむろに起こし、曖昧だった記憶を手繰り寄せていくうちにゴルベーザの顔が浮かんだ。カインは視線を左右に這わせた。
「……ゴルベーザは?」
「いま胃腸薬買いに行ってもらってる。兄さん、倒れたカインをおんぶしてここまで連れて来たんだよ」
「えっ、あいつが?」
「ああ。何かおかしい?」
「いや……別に」
 ゴルベーザが俺を背負って――自分自身のこととはいえ、全く想像がつかない光景だった。威圧では効果がないから、今度は懐柔策にでも転じたのか。いや、とカインは首を振った。どんなことがあろうとも、セシルを諦めたりするものか。自分のために(もちろん、セシルに頼まれたからだろうが)胃腸薬を買いに行ったゴルベーザには悪いが、やっと2人きりになれたのだ。カインはセシルの肩を引き寄せ、桜色の唇を自分のそれで塞いだ。舌を差し入れ、後頭部に手を回す。
「……っ……んっ……」
 セシルが時折漏らす吐息に体中が熱くなる。舌を絡め、ちゅっと音を立てながら何度も唇を啄む。やがて口を離すとセシルは上気した顔を向けてきた。互いの息を感じるほどの至近距離。長い睫毛を伏せ気味に、セシルが呟く。
「兄さん、もうすぐ戻ってくるよ……」
「まだ大丈夫だろ。セシル、こっち」
 セシルの体を抱き締め、そのままベッドに倒れ込む。カインはすぐさま体を起こしてセシルの顔の横に手をついた。髪を一撫でし、上から覆い被さり、再び唇を塞いでやる。
「んん……ふっ……」
 耳の後ろをくすぐり、首筋にそって指先を下ろしていく。セシルが自分の肩に乗せていた手を取り、指と指を絡めながらベッドに押し付ける。こうして触れ合っていると正常な思考が薄れていく。セシルと一緒に寝るようになってからは毎夜のようにしている行為なのに、いつも、唇に触れる瞬間は初めてのように興奮するのだ。
 セシルの口腔内を貪るうち、下半身に熱が集まっていくのを感じる。最近、自慰では物足りなくなってきた。専ら妄想の対象となっている相手が今まさに自分のすぐ真下にいる。いっそこのまま最後まで――そう思ったところで、窓の外から大きな爆発音が聞こえた。反射的にカインはセシルから顔を離し、音のした方を振り仰いだ。
「……何だ?一体」
「行ってみよう。事件かな」
「ああ」
 部屋を飛び出したセシルのすぐ後ろを追い、カインは小さく舌打ちした。せっかく2人きりの時間を楽しんでいたというのにとんだ邪魔が入ったものだ。
 外に出ると人だかりが出来ていた。近くにいた中年の女性に尋ねたところ、空中で突然何かが爆発を起こしたらしい。とはいえ怪我人はおらず、家屋の被害もなかったようで、そもそも爆発の原因さえ分からない状況らしい。
「何だったんだよ。迷惑だな」
「うーん……あっ、兄さんだ!」
 人の波を掻き分け、ゴルベーザが2人の元に駆け寄ってくる。薬の入った紙袋を乱暴にカインに押し付け、彼はセシルの肩に手を置いた。
「何か騒ぎがあったようだな。物騒だから今すぐ帰るぞ」
「え、でもカインが」
「薬があるから大丈夫だ。行くぞセシル」
 有無を言わさずセシルの肩を抱き、立ち去ろうとした彼をカインは慌てて呼び止めた。ゴルベーザは顔だけを振り向かせ、
「それだけ大きな声が出るのだ。もう安心だな、カイン」
 したり顔で自分を見やる彼の表情を見た瞬間、この騒動の黒幕が誰なのかを悟った。
 何て奴だ、弟の為にここまでやるか普通――毒付き、カインは胃薬の入った紙袋を地面に向かって叩き付けた。



***



 突然目の前で気を失った少年の真っ青になった顔を見て、可愛い弟の為といえども、我ながら些か大人気ない真似をしたと自省した。自分も15歳の頃はもっぱらジュースを好んでいたし、ブラックコーヒーが飲めるようになったのはつい2年程前からだった。後ろめたさと懺悔を込めて倒れた彼の体を自ら背負い、セシルと共に家のベッドまで送り届けた。弟が胃腸薬を買いに行こうとしたのを制止し(万が一カインが目を覚ました時、2人きりでは気まずいからだ)代わりに自分が薬屋まで出向くことにした。
 セシルから渡された手書きの地図はあまりに不親切なものだった。バロンの街並みは10年前と同じ土地とは思えぬほど変わっており、かつての自分の記憶は何ら頼りにならない。セシルは我が弟ながら字が汚く、どうやら絵心も皆無のようだ。地図に描かれた意味不明のイラストや汚い字と格闘しつつ、目的地に着いた頃には既に半時間以上経過していた。
 老人の薬師が2日分の胃腸薬をのんびり調合している間に更に半時間が経ち、結局、カインの家を出てから帰路につくまで1時間以上も掛かってしまった。
 やっとの思いで家に着き、二階に続く階段を登っていくと、話し声が聞こえてきた。
――否、話し声というより、はあ、はあ、と吐息混じりに呻くような声だった。
 嫌な予感が頭をよぎり、ゴルベーザは足音を殺してそっと部屋の前に立った。扉を1センチほど開き、中の様子を伺い見る。怒りで、目の前が真っ赤になった。
「んんっ……カイン……も……兄さんが……」
「あの薬師のじいさん、トロいからまだ平気だって。こっち向けよ」
「あっ……」
 カインがセシルの上に覆い被さり、何度となく口付けを繰り返している。ゴルベーザは自分の行動を後悔した。何故一瞬でも彼に対する謝意を抱いてしまったのだ。あんな少年、あのままカフェテリアに放置しておけば良かったのだ。いっそ彼の頭上にメテオを放ってやりたいが、それでは密着しているセシルにまで被害が及ぶ。かと言ってこのまま部屋に飛び込むのは弟の心情を慮ると躊躇われた。ゴルベーザは家から出ると、何もない空中に向かって手を翳した。フレアの呪文を唱えた瞬間、小規模な爆発が空に生じた。威力に似合わず地面を揺るがすような爆音に一斉に人が集まる。やがて、案の定、セシルとカインも家から姿を現した。今来たような顔をして、ゴルベーザは2人の元に近寄った。
 夕食後、セシルに誘われ一緒に風呂に入ることになった。向かい合わせに湯船に浸かると、弟の白い胸元にいくつか点在する赤い痕が目に入った。
「……セシル。虫さされが――」
 そこまで言いかけ、もしや、とカイン宅で見た光景が頭に浮かんだ。セシルの頬が紅潮し、自分から胸元を隠すように体をそむける。やはりあれは虫さされなどではなく、人為的な鬱血痕なのだとゴルベーザは確信した。忌々しいカインが嫌がる弟の服を強引にはだけさせ、無理やり肌に吸い付いたに違いない。彼の都合の良い頭は、セシルが自らカインに甘えるような仕草を見せていたことを、記憶から抹消していた。
 弟に背中を流してもらうのは10年ぶりのことだった。カインに抱く憤慨さえ吹っ飛ぶほど、穏やかで心地の良い一時。湯で泡を洗い流し終えるやセシルが背中に顔を密着させてきたので、どうした、と後ろの彼に向かって呼びかける。
「兄さん、本当に明日の昼に帰っちゃうの?」
「……ああ。仕事が忙しくてな。今回の連続休暇も粘りに粘ってやっと取れた程だ」
「そうか……なら仕方ないね。あのさ兄さん、僕考えてることがあるんだ」
「何だ?セシル」
「仕官学校卒業したら、ガーデンのSeeD試験受けようと思って」
 思いがけないセシルの言葉に、何と言って返答すれば良いのか分からずゴルベーザは言葉に詰まった。
 もちろん兄の立場としては喜ばしいことこの上ないが、卒業後の進路選択が一生を左右すると言っても過言ではない。安易に同意すべきではないと思うし、かと言って反対する理由もさしあたって思い付かない。
 ゴルベーザの逡巡を見透かしたのか、セシルが両手を添えて、大丈夫、と背中越しに呟いた。
「SeeDになりたいのは、兄さんのことだけが理由じゃないよ。僕……最近兄さんがバロンを出た理由が何となく分かるんだ。養子縁組を断った時、陛下に言ってただろ。もっと知識や見聞を広げたい、って。僕もね、同じこと考えてる。僕の場合は好奇心だったり冒険心からじゃなくて、自国の事情しか知らないようじゃ国を守る騎士としては失格だと思うんだ」
 いつまでも子供だと思っていたセシルは、自分が考えていた以上にずっと大人で、将来を見据え、しっかりしたビジョンを持っていたようだった。相変わらず甘えん坊なのは変わらないが、彼なりの考えに基づいての結論ならば、何も心配はいらないと、ゴルベーザは頷いた。
「分かった。ならば試験の時は推薦状を」
「そんなの要らないよ。僕1人の力で受けるから意味があるんだ」
「……それもそうだな。分かった、一切の関与はしない」
 成長したな、我が弟よ――セシルの成長を目の当たりに感動する傍ら、ふと思ったことがあった。果たしてセシルにSeeDの制服が似合うのだろうか。もっとこう、俗世離れした幻想的な衣装なら弟の美しさが際立って良かったのにと、思考が脇道にそれていく。いっそ女子の制服の方が似合うのではと考えたところで我に返った。
「兄さん?どうしたのボーっとして」
「いや、何でもない」
 ゴルベーザは首を振り、馬鹿な思考を頭から振り払った。そうして出来た空白を埋めるように、今度は違う思考が頭に取り憑く。セシルがSeeDになれば当然バラムガーデンに下宿することになる。何故なら、バラムとバロンは大陸横断鉄道で12時間も掛かる遠距離だからだ。セシルがバラムガーデンに下宿する、それはつまりカインと弟を引き離せるということだ。生意気な元部下の悔しがる顔を思い浮かべ、内心、小躍りしたい気分だった。
「セシルよ。何が何でもSeeD試験に合格するのだ。いいな」
 セシルにそう言い聞かせ、ゴルベーザは彼の手を取り、しっかりと握り締めた。



***



 しんと静まり返った家具の少ない室内はどこか物寂しく、ここ1年の間、ほとんど毎晩セシルと同じ布団で寝ていたせいか、1人で眠ることに違和感を覚え、些か心細く思える。
 昼間、図らずも意識を失ったせいで、結果的に午睡したも同然の状況にあり、カインはなかなか寝付けずにいた。
 あまりに目が冴えてしまい、手持ち無沙汰になった彼は、ベッドの下に手を伸ばした。最近こっそり買っているちょっとエッチな本を取り出し、頭上に掲げて中をペラペラと捲っていく。ほとんど裸同然の格好をして、なまめかしいポーズを取った巨乳美人が白い歯を見せこちらに笑いかけている。髪型も体型も全く違うが、顔の造りがどことなく幼なじみに似ていた。ただそれだけの理由で定期購読の申し込みまでしてしまった。雑誌が自宅に届いた時、運悪くばあやがそれを受け取ってしまい、暫くの間気まずい空気が流れたという苦い記憶もある。
 カインは下肢に手を伸ばした。昼間、セシルと交わした熱いキスを思い出し、時折セシル似の巨乳美人の顔を見ながら自慰に耽る。
「セシル……」
 愛しい恋人の名前を呟く。段々息が荒くなり、あと一歩というところで、ふとゴルベーザのしたり顔が頭に浮かんだ。カインは手の動きを止めた。
 あの野郎、どこまで人の邪魔をする気だ――!
 人の妄想にまで割り込みやがって。頬を染め、可愛らしい鳴き声を上げ自分に縋り付いてくるセシルの中で果てる妄想が頭の中一杯に広がっていたのに、突然あんな奴の顔を思い浮かべてしまうなんて何たる不覚だ。穴の開いた風船の如く性欲が萎んでいく。
 さっさとアイツを抱いてしまおうと、セシルの意志は置いてけぼりに、カインは強く決意した。ゴルベーザがいくら邪魔をしようとも断ち切れない、深い関係になってしまえばいいのだ。
 幸い奴は明日の昼にはバロンを発つ。それまでの辛抱だと自分自身に言い聞かせ、ちょっとエッチな本の巻末にある初めての×××特集を一晩中読みふけった。



***



 3日目の朝。セシルと簡単なブレックファーストを取り、それから町を目的もなく練り歩いた。
「今日でまた暫くお別れだね」
 寂しげに呟く弟の頭を撫で、また会いに来るから、と宥めてやる。大通りに入ったところで前方から忌々しい少年がこちらに向かって駆けてきた。自分の方をちらりとも見ず、隣にいるセシルにお早うと声を掛けるカインを見下ろし、何用だと2人の間に割って入る。
「カイン、目の下にクマが出来てる」
「ああ……昨夜なかなか寝付けなくて回路工学の論文を読みふけってた」
 嘘を付け、大方いかがわしい本でも読みふけっていたのだろうと内心毒付く。セシルの肩に触れるカインの手つきが気に食わない。弟の肩からそのいやらしい手をさっさと退けろと見えない圧力を彼の手元に送り続ける。
「……して、朝から何の用だ」
 用が無いならさっさと立ち去れ、そんな含みを込めた刺々しい声色でカインに問う。
「アンタを送りに。今日バラムに帰るんだろ」
 笑うのをこらえたような表情を作り、カインが答えた。バラムに帰るのが嬉しくてたまらないといった顔だ。いっそもう1日休暇を延ばしてやろうかと考えたが、明日は朝から成績会議がある。
 勝ち誇ったカインを見るうち、子供じみた対抗心が胸の内からふつふつ沸き上がってきた。この元部下の少年の魔の手から可愛いセシルを守る方法はないだろうかと思考を巡らす。
 ふと、大通りの街灯に掛けられた看板を見上げ、これだ、と妙案が頭に浮かんだ。ゴルベーザは所用を思い出したと言い、2人を置いて目的の場所に急いだ。カインめ、貴様の好きになどさせんぞ――早足で歩きながら、そう心の中で呟いた。
 駅のプラットフォームに立ち、弟と抱擁を交わす。セシルはいつまでも自分にしがみついたまま離れようとはしなかった。列車が到着し、ゴルベーザは断腸の思いでそっと弟の体を離した。セシル、と優しく声を掛け、大きな紙袋を彼に手渡す。
「……これは?」
「私からお前への贈り物だ。後で開けてみろ」
「うん、分かった。兄さん……お元気で」
「お前もな。――変な輩には気を付けろよ」
 そう言い、斜め後ろにいる上機嫌のカインをぎろりと睨み付けた。
 無情にも発車のサイレンが鳴り響く。ゴルベーザは列車に乗り込み、目尻に涙を溜めたセシルに暫しの別れを告げた。プラットフォームの先端に立つ弟の姿が完全に見えなくなった後、中に入り自分の席に座り込む。彼に渡した紙袋の中身と全く同じものを取り出し、説明書きを目で追い始めた。




***



 やった。やっと鬱陶しい奴がいなくなった。自分の清々しい気持ちを反映したかのように、空を見上げれば雲一つない晴天が広がっている。セシルのことなら心配いらないぜゴルベーザ、何故なら俺がずっとコイツの側にいるからな。
 長い線路の先を見つめ、涙に濡れた顔を手でこするセシルの肩に手をかける。
「セシル。そう落ち込むなよ。元気出せ」
「ああ……ありがとうカイン」
 真っ赤に腫らした目で自分を見上げるセシルが無性に愛しく感じられた。ちょっとエッチな本の特集によると、相手が傷心中の場合が最も落としやすいらしい。それに、セシルはこちらが心配になる程ガードが緩い。初めてキスを交わした時のように多少強引に迫ってしまえば、最後までさせてくれるに違いない。
「今夜、泊まりに来るだろ?」
「ん……そうさせて貰おうかな」
「分かった。じゃあ家で待ってる」
 本当は夜になるまでずっとセシルと共にいたいが、生憎とこれから補習授業がある。カインは魔法分野が不得手だった。たかがちょっとメテオやフレアを使えるから何なのだと反抗し、魔法担当の教師の怒りを買ってしまい、たった1人の補習授業を受けさせられる羽目になったのだ。
 4時間に渡り休みなく課せられた呪文の書き取りという苦行を終え、帰宅したカインは頭が疲れ切っていた。それでも、夕食を終え、風呂で念入りに体を洗った頃には今夜のことで脳内が埋め尽くされ、邪な妄想が次から次へと浮かんでくる。
 やがてセシルが訪ねてきた。はやる気持ちを抑え、カインはいつものように布団を捲り、来いよセシル、と手招きした。素直に自分の隣に潜り込んできたセシルの手を握り締め、横顔に触れるだけのキスを落とす。耳の後ろに舌を這わせ、カインはやや緊張気味に、手を彼の服の中に滑り込ませた。セシルがこちらを振り向き、戸惑うような顔を見せる。すかさず唇を塞いでやり、手を胸元に向かって這わせていった。
「んっ……カイン?……何して……」
 もう少しで目的の場所に辿り着くという寸前で、突然、聞き慣れない音が鳴り響いた。それを聞いたセシルが飛び起き、ベッド下に置かれた鞄を漁り始める。
 せっかくいい雰囲気だったのに――仏頂面でベッドに胡座をかき、幼なじみの様子を見守る。セシルがいそいそ鞄から取り出したのは、リモコンサイズの見慣れない物体だった。2つに折り畳まれていたそれを開き、えっと、確かここを、と1人ごちりながら指先を動かしている。それを耳に当てたかと思えば、セシルは嬉々とした表情で喋りだした。
「――兄さん!うん、聞こえるよ!」
 一体セシルは何をしているのだ。まさか頭がトチ狂ったのではないだろうなと訝しげに彼を凝視し、ベッドから下りてセシルの側ににじり寄る。
「うん、うん。……あ、ちょっと待ってて。ごめん兄さん」
 目の前にしゃがみ込んだカインに気付き、セシルが物体を耳から離した。
「カイン、兄さんともう暫く話すから先に寝てて」
「何言ってんだよ。話すってどうやって……」
「これ、ひそひそうモバイルっていうんだって。ひそひ草の進化版らしいよ。遠くの相手と会話出来るんだ。兄さんから貰ったんだ」
 だからごめん、と顔の前で手刀を切るセシル。昼間、ゴルベーザがセシルに手渡した紙袋を思い出して合点がいった。
 再びセシルはひそひそうモバイルとやらを耳にあてがい、今頃バラムにいる筈のゴルベーザと話し始めた。カインは渋々ベッドに戻った。まあその内終わるだろうと高を括った。しかし見通しが甘かった。1時間、果ては2時間経っても延々と彼らの会話は続いていた。
 余りにも長時間待ちぼうけをくらったカインはとうとう眠りについてしまった。初めての×××を達成することは出来なかった。
 それからというものの、毎晩似たような事が起きた。セシルに触ろうとすると例の音(着信音というらしい)が鳴り響くのだ。独特のメロディラインが段々トラウマのようになってきた。
 そして漸くゴルベーザの狙いが読めた。遠方にいても尚、自分の邪魔をしようというつもりらしい。
「くそっ、何て奴だ!」
 どのような嫌がらせを受けようが、このまま引き下がる訳にはいかない。3日以内、いや1週間、いや1ヶ月以内に絶対セシルを抱いてやる。
 カインはセシルに、ゴルベーザのスケジュールを聞き出した。奴は教師だ、授業時間はさすがに話し掛けてこない筈だ。その時間を見計らって、セシルを頂いてしまおうという計画だった。
 兄のスケジュールを尋ねられ、セシルは嬉しそうに微笑んだ。やっぱり、と呟く彼に、何がやっぱりなのだと聞き返す。
「良かった、何か険悪そうに見えてたけどやっぱり兄さんが好きなんだね。カインと兄さんて似てるだろ、気が合うと思ったんだよ」
「……似てる、だと?」
 前半部分を否定する前に、後半の言葉が引っ掛かった。似てるよ、とセシルが即座に頷くのを見てカインは首を左右に振った。
「どこがだよ!俺とゴルベーザは……そう、水と油だ。反発しあう運命なんだよ」
 そうかなあと呟き、口元に手をあてがう。やがて、何かを思い付いたようにセシルが顔を上げて言った。
「そういえば、知ってる?水と油って、混ぜるとやがては乳化して、一つに混ざり合うんだよね」
 あんな奴と混ざり合うなんて勘弁してくれ。俺はお前と混ざり合いたいんだよ――。
 その後もゴルベーザとの攻防戦は延々と続いた。結局、カインが望みを叶えることが出来たのは、半年後のことだった。初めての情事を終え、恋人との至福の時間をベッドの中で味わうカインにセシルが言った。
「言い忘れてたんだけど、僕卒業したらガーデンに行くね」
 セシルを抱き、漸くゴルベーザに打ち勝つことが出来たと思った矢先、それはあまりにも青天の霹靂だった。呆然となったカインにまるで追い討ちを掛けるように、例の着信音が部屋中に鳴り響いた。




END



以前から3人の過去エピソードをいずれ書いてみたいと漠然と思っていまして、リクエストを頂いたのがきっかけで形にすることが出来ました^^
兄さんはああ見えて弟に関しては大人気がなく、カインは思春期の子供なので自分中心の考え方しかできない少年、そんなイメージで書いてみました。
リクエスト、ありがとうございました!








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